銀閣寺の観音殿「銀閣」は、侘び寂びの東山文化の代表的建築。きらびやかな金閣とは対照的に独特の落ち着きをもって佇んでいました。
※参拝日:2022年10月
この記事の内容
幽玄の銀閣寺を歩く
銀閣寺は正式には慈照寺(じしょうじ)といいます。開基は、室町幕府第8代将軍・足利義政です。
義政の山荘だった東山殿(ひがしやまどの)を、遺言に従い禅宗寺院に改め、慈照寺と称しました。
観音殿を一般に「銀閣」と呼ぶことから慈照寺も「銀閣寺」と呼ばれます。
銀閣は2階建て。初層は住宅風書院造り、二層は禅宗様の仏殿という構成。
たしかに、1階は家っぽい。
2階には観音菩薩像が安置されています。おしゃれな窓は花頭窓(かとうまど)といって、禅宗寺院の建物でよく見かけますね。
銀閣は金閣を参考につくられたとされますが、金ピカ金閣の対極にあるような気品、優雅さ・・・こういうのを幽玄と言うのでしょうか。とりあえず「渋い!」です。
「銀閣」観音殿は、東山殿造営当時の遺構として東求堂(とうぐどう)とともに国宝に指定されています。
※東求堂:義政の持仏堂で、書斎の同仁斎は日本最初の四畳半茶室とされる
また、銀閣寺庭園は、国の特別史跡・特別名勝に指定されています。(銀閣寺は世界文化遺産に登録)
銀閣寺は通常、庭園のみが公開されています。特別拝観の期間以外は建物内部には入れませんが、庭園を散策することができます。
↓ 縞状に見える白砂「銀沙灘(ぎんしゃだん)」は波紋を表現しているそう。
↓ 向月台(こうげつだい)。この上ににすわって東山に昇る月を待ったという俗説があるとのこと。
↓ 庭園の奥は小高くなっていて、上ると展望がひらけます。
足利義政と東山文化
なぜ「銀閣」と呼ぶ?
金閣は金箔が貼られ、文字通り金閣なのに対して、銀閣はそうではありませんね。
では、なぜ、銀閣と呼ばれるのでしょうか?
銀箔を押す計画だったが幕府の財政難であきらめたとか、金閣にならって銀閣と呼んだとか、はっきりとしたことはわかっていないようです。
禅や茶の湯に通じる美意識をもつ義政は、最初から銀箔を貼るつもりはなかったという説もあるようです。
銀箔が貼られた銀閣も見てみたい気がしますが・・・
金閣寺についてはこちらの記事がありますので、ご興味のある方はどうぞ。↓
東山文化の拠点
義政の治世に応仁の乱が起こり、京都は焼け野原になってしまいました。
これまで回った寺院の歴史を調べていると、応仁の乱の兵火で伽藍が焼失したという記述にしばしば出会います。
中にはそのまま再建されず世から消えてしまったものもあるようです。惜しいことをしたものです。
応仁の乱後、義政は東山殿の造営を始めて移り住み、余生を過ごします。争乱を逃れた芸術家や職人たちを保護し、その活動を支援しました。
義政の周りには身分に関係なく多くのすぐれた文化人が集まり、東山殿は文化を育む一大拠点になっていたようです。
現代日本文化の源流
東山文化は、公家の文化と武家の文化に、禅宗の文化が融合して生まれました。簡素で洗練され、深みがあり、日本人特有の美意識、「わび・さび」の精神を特徴とします。
「わび・さび」というのはわかりにくいですが、この時代に、生け花、茶の湯、能楽、水墨画、書院造り、茶室建築、庭園造り(西芳寺(苔寺)、龍安寺などが有名)などが発展しました。
また、東山文化は、京都を離れ地方へ逃れた公家や武家により各地に広まり、現代にも通じる日本文化の源流となりました。
応仁の乱が起こったのは義政一人の責任ではないでしょう。多くの人が亡くなる痛ましい出来事でしたが、一方で義政は日本文化の発展に多大の貢献をした人物と言えるでしょう。
お寺を回るときは庭園を見るのが楽しみですが、義政と東山文化の影響が少なからずあるのかもしれません。
御朱印
直書き「観音殿」です。なかなかいい。
●銀閣寺の基本情報
・臨済宗 相国寺派
・山号:東山(とうざん)
・御本尊:釈迦如来
・創建:1202年
・文化財:国宝・国指定重要文化財/世界遺産
・京都市東山区
2022(令和4)年10月10日(月)参拝(60歳7か月)