日吉東照宮は滋賀県大津市、比叡山の麓に鎮座する日吉大社の境外末社。非公開日だったため外から眺める程度でしたが、「権現造り」の一端を垣間見ることができました。
※今回は御朱印をいただかなかったので、〔番外編〕としています。
この記事の内容
日光東照宮のプロトタイプ
日吉東照宮は1623年、天台宗の僧侶、天海(てんかい)大僧正により造営されました。
できあがった「権現造り」の社殿がすばらしかったため、その様式をもとに日光東照宮を造り替え(寛永の大造替)、ほぼ現在見られるような社殿になりました。
日光東照宮の記事はこちらです。↓
世界文化遺産・日光東照宮の原型になったのが日吉東照宮なんですね。知りませんでした~
権現造りの発祥
「権現造り」は神社建築の様式の一つ。拝殿と本殿を石の間(相の間)でつなぎ、一連の建物とする様式です。
▼唐門から右に回り込んで撮影。
ふだん私たちが神社でお詣りするところは拝殿と呼ばれるところが多く、本殿はその奥にあり、よく見えない場合が多くあります(←あくまで私の経験の範囲内)。
たとえば、京都の石清水八幡宮は「八幡造り」という様式なのですが、実際に現地に行ってみると回廊で囲われていたり、社殿が大きすぎたりして、肉眼ではその様式を確認できません。
その点、この日吉東照宮のような大きくない社殿のほうが全体像が見えてよいという利点があります。
社殿の上半分を外から見ただけでしたが、来た甲斐が少しはあったかなと感じた次第です。
「権現様」の名づけ親(?)天海大僧正
日吉東照宮を建てた天海大僧正(慈眼(じげん)大師)は徳川家康の帰依を受け、幕政に参画、2代秀忠、3代家光にも仕えた人物です。
日光山(輪王寺など)を再興し、家康が亡くなった際には葬儀の導師をつとめました。東京上野の寛永寺の創建者でもあります。
家康が亡くなり神号が検討されたとき、同じく家康の政治顧問だった金地院崇伝(こんちいんすうでん)が明神号(〇〇大明神)を主張したのに対して、天海僧正は権現号を主張、天海の意見が通り、家康の神号は東照大権現に決まりました。
家康はその後、「権現様」などと呼ばれました。
なお、天海僧正は家康公の亡骸を久能山から日光山へ改葬の途上、埼玉県川越市の喜多院で法要を営み、のち、喜多院の境内には仙波(せんば)東照宮が建立されました。
仙波東照宮の記事はこちらです。↓
▼日吉東照宮は少し高いところにあって、琵琶湖が見えました~
●日吉東照宮の基本情報
・ご祭神:徳川家康公
・創建:1623年
・文化財:国指定重要文化財
・滋賀県大津市
2023(令和5)年5月23日(火)参拝(61歳2か月)