541こ・む

神社仏閣めぐり初心者が始めた「なるほど」参拝紀行

【上野・寛永寺_2】天海は 上野の生みの 親だよね|60歳からの御朱印めぐり〔076/541〕

寛永寺_開山堂

根本中堂に続いて、開山堂、上野大仏、不忍池辯天堂、清水観音堂に参拝しました。

この記事の内容

開山堂:天海大僧正が開山

根本中堂から徒歩10分ぐらいで開山堂に着きます。

寛永寺_開山堂

寛永寺の開山は天海大僧正(慈眼(じげん)大師)です。

天海は徳川家康の絶大な信頼を得て顧問的な存在となり、幕政に参画。2代秀忠、3代家光にも仕えた人物です。

天海大僧正については、こちらの記事をご参照ください。↓

pirooh.hatenablog.com

天海は108歳!で寛永寺で亡くなり、翌年に開山堂が建てられました。

のちに天海が尊崇していた慈惠(じえ)大師良源大僧正も祀ることになり、開山堂は「両大師」とも呼ばれます。

寛永寺_開山堂

比叡山や京の都に見立てる

天海が江戸の鬼門(東北)に位置する上野の山に寛永寺を開いたのは、平安京の鬼門を守る比叡山にならったものでした。

開山後、天海は比叡山や京都の有名寺院に見立ててお堂を建てました。

水観音堂清水寺
不忍池(しのばずのいけ) ⇔ 琵琶湖
不忍池辯天堂竹生島(ちくぶしま)弁天堂

江戸時代初期は庶民が自由に旅行に行ける時代ではありませんでした。

そこで、天海は京都や比叡山に行けなくてもその雰囲気を感じられるよう、名所を模したお堂や景観を境内につくったというわけです。

寛永寺_開山堂

寛永寺を江戸庶民の憩いの場に

寛永寺徳川将軍家祈願寺、官寺として関係者のみが参拝することを想定していました。

しかし、天海は寛永寺を江戸庶民が自由に参拝し、行楽できる場所にしようと考えました。

これは、幕府の意向に反するものだったため幕府からの資金援助が制限されます。

それでも天海は私費を投じるなどして、寛永寺の境内を整備していきました。

寛永寺_開山堂

桜の名所・上野は天海のおかげ

寛永寺が開かれる以前の上野の地は人口の少ない地域でした。

寛永寺が建立されると門前町が開け、賑わいを見せるようになります。

賑わう寛永寺

天海は奈良の吉野から桜を取り寄せ、上野の山を桜の名所としました。(当時はヤマザクラ。今はソメイヨシノ

桜の季節には境内を開放して多くの人々を楽しませたそうです。

現在でもニュース映像で見る上野のお花見は天海が生みの親と言えます。

寛永寺_開山堂

寛永寺_阿弥陀堂

阿弥陀堂

上野公園_天海大僧正毛髪塔

天海大僧正毛髪塔(上野公園内、清水観音堂近く)

寛永寺_輪王殿

多目的会館の輪王殿(左は開山堂)

▼輪王殿の門は旧本坊の表門が移築されたものです。

寛永寺_旧本坊表門

旧本坊表門(重文)

本坊は上野戦争により焼失し、表門だけが残された形です。

門には現在でも明治政府軍による弾痕が数多く残っているそうです。

上野大仏:お顔だけの大仏さま

開山堂から上野公園に入り、上野大仏に向かいました。

▼小高い山の上(大仏殿の跡地)に薬師如来を祀るパゴダ(仏塔)があります。

寛永寺_上野大仏

▼パゴダの脇に大仏さまがおられますが・・・

寛永寺_上野大仏

上野の大仏さまはお顔だけです。

なぜ、顔だけが残っている?

上野大仏は火事や地震により度々損壊し、復興してきました。

関東大震災により首が落ち、寛永寺に保管されていましたが、先の大戦時の金属供出により胴体を徴用され、お顔のみが残されることとなりました。

寛永寺_上野大仏

もとは像高6mの釈迦如来坐像

「これ以上落ちない」合格大仏

上野の大仏さまは胴体がないことから「これ以上落ちない」!

ということで、受験生たちが合格祈願をするようになり、「合格大仏」と呼ばれています。

寛永寺_上野大仏

がんばれ! 受験生(特に浪人生?)

寛永寺

何気に鼻が高い大仏さま

不忍池辯天堂:蓮の名所の七福神

上野の山を下りて不忍池に来ました。

寛永寺_不忍池辯天堂

不忍池は都内の蓮の名所です。(蓮の花の見ごろは7~8月)

寛永寺_不忍池辯天堂

手水舎の後ろは不忍池

弁天堂は不忍池中之島にあります。

天海大僧正が琵琶湖の竹生島になぞらえて中之島を築き、そこに辯天堂を建立しました。

寛永寺_不忍池辯天堂

当初は橋がなく、竹生島へ船で渡るように中之島へ渡るにも船が必要でした。

ご本尊の弁才天も、竹生島宝厳寺(ほうごんじ)から勧請したものです。
宝厳寺弁才天厳島、江の島の弁才天とともに日本三大弁天の一つ

寛永寺_不忍池辯天堂

寛永寺_不忍池辯天堂

▼弁天堂の右手には大黒天堂があります。

寛永寺_大黒天堂

こちらの大黒さまは豊臣秀吉が大切にしていたと伝えられています。

お堂は太平洋戦争で焼失しましたが再建され、難を逃れた大黒さまが祀られています。

寛永寺_大黒堂

寛永寺_大黒堂

水観音堂:東京にも清水坂

上野の山に戻って清水観音堂を見上げます。

寛永寺_清水観音堂

水観音堂は京都の清水寺を見立ててつくられました。

▼月の松

寛永寺_清水観音堂

「月の松」は江戸時代の植木職人が松の枝を月に見立ててつくったとされています。(現在のものは平成24年復元のもの)

歌川広重の『名所江戸百景』にこのような絵が描かれています。

▼清水観音堂に向かう階段を上っていると

寛永寺_清水坂

清水坂

東京にもあったんですねぇ~

▼こちらからお堂へ上がります。

寛永寺_清水観音堂

水観音堂は上野の山に現存する創建年時の明らかな最古の建造物であり、重文指定を受けています。

寛永寺_清水観音堂

清水寺の本堂を模して造られた舞台

▼舞台から「月」を覗くと

寛永寺_清水観音堂

不忍池辯天堂が見えました。

御朱印慈眼大師

開山堂の御朱印慈眼大師」(天海大僧正)です。書き置き(500円)。

寛永寺開山堂_御朱印

 

寛永寺の基本情報

天台宗 別格大本山
山号:東叡山
・御本尊:薬師瑠璃光如来
・開基:徳川家光/開山:南光坊天海
・創建:1625年
文化財(建造物):重要文化財
・東京都台東区

2024(令和6)年2月3日(土)、2月10日(土)参拝(61歳11か月)