根本中堂に続いて、開山堂、上野大仏、不忍池辯天堂、清水観音堂に参拝しました。
この記事の内容
開山堂:天海大僧正が開山
根本中堂から徒歩10分ぐらいで開山堂に着きます。
天海は徳川家康の絶大な信頼を得て顧問的な存在となり、幕政に参画。2代秀忠、3代家光にも仕えた人物です。
天海大僧正については、こちらの記事をご参照ください。↓
天海は108歳!で寛永寺で亡くなり、翌年に開山堂が建てられました。
のちに天海が尊崇していた慈惠(じえ)大師良源大僧正も祀ることになり、開山堂は「両大師」とも呼ばれます。
比叡山や京の都に見立てる
天海が江戸の鬼門(東北)に位置する上野の山に寛永寺を開いたのは、平安京の鬼門を守る比叡山にならったものでした。
開山後、天海は比叡山や京都の有名寺院に見立ててお堂を建てました。
↓
・清水観音堂 ⇔ 清水寺
・不忍池(しのばずのいけ) ⇔ 琵琶湖
・不忍池辯天堂 ⇔ 竹生島(ちくぶしま)弁天堂
江戸時代初期は庶民が自由に旅行に行ける時代ではありませんでした。
そこで、天海は京都や比叡山に行けなくてもその雰囲気を感じられるよう、名所を模したお堂や景観を境内につくったというわけです。
寛永寺を江戸庶民の憩いの場に
寛永寺は徳川将軍家の祈願寺、官寺として関係者のみが参拝することを想定していました。
しかし、天海は寛永寺を江戸庶民が自由に参拝し、行楽できる場所にしようと考えました。
これは、幕府の意向に反するものだったため幕府からの資金援助が制限されます。
それでも天海は私費を投じるなどして、寛永寺の境内を整備していきました。
桜の名所・上野は天海のおかげ
寛永寺が開かれる以前の上野の地は人口の少ない地域でした。
寛永寺が建立されると門前町が開け、賑わいを見せるようになります。
天海は奈良の吉野から桜を取り寄せ、上野の山を桜の名所としました。(当時はヤマザクラ。今はソメイヨシノ)
桜の季節には境内を開放して多くの人々を楽しませたそうです。
現在でもニュース映像で見る上野のお花見は天海が生みの親と言えます。
▼輪王殿の門は旧本坊の表門が移築されたものです。
本坊は上野戦争により焼失し、表門だけが残された形です。
門には現在でも明治政府軍による弾痕が数多く残っているそうです。
上野大仏:お顔だけの大仏さま
開山堂から上野公園に入り、上野大仏に向かいました。
▼小高い山の上(大仏殿の跡地)に薬師如来を祀るパゴダ(仏塔)があります。
▼パゴダの脇に大仏さまがおられますが・・・
上野の大仏さまはお顔だけです。
なぜ、顔だけが残っている?
上野大仏は火事や地震により度々損壊し、復興してきました。
関東大震災により首が落ち、寛永寺に保管されていましたが、先の大戦時の金属供出により胴体を徴用され、お顔のみが残されることとなりました。
「これ以上落ちない」合格大仏
上野の大仏さまは胴体がないことから「これ以上落ちない」!
ということで、受験生たちが合格祈願をするようになり、「合格大仏」と呼ばれています。
不忍池辯天堂:蓮の名所の七福神
上野の山を下りて不忍池に来ました。
不忍池は都内の蓮の名所です。(蓮の花の見ごろは7~8月)
天海大僧正が琵琶湖の竹生島になぞらえて中之島を築き、そこに辯天堂を建立しました。
当初は橋がなく、竹生島へ船で渡るように中之島へ渡るにも船が必要でした。
ご本尊の弁才天も、竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)から勧請したものです。
※宝厳寺弁才天:厳島、江の島の弁才天とともに日本三大弁天の一つ
▼弁天堂の右手には大黒天堂があります。
こちらの大黒さまは豊臣秀吉が大切にしていたと伝えられています。
お堂は太平洋戦争で焼失しましたが再建され、難を逃れた大黒さまが祀られています。
清水観音堂:東京にも清水坂!
上野の山に戻って清水観音堂を見上げます。
▼月の松
「月の松」は江戸時代の植木職人が松の枝を月に見立ててつくったとされています。(現在のものは平成24年復元のもの)
▼歌川広重の『名所江戸百景』にこのような絵が描かれています。
▼清水観音堂に向かう階段を上っていると
東京にもあったんですねぇ~
▼こちらからお堂へ上がります。
清水観音堂は上野の山に現存する創建年時の明らかな最古の建造物であり、重文指定を受けています。
▼舞台から「月」を覗くと
不忍池辯天堂が見えました。
御朱印「慈眼大師」
開山堂の御朱印「慈眼大師」(天海大僧正)です。書き置き(500円)。
●寛永寺の基本情報
・天台宗 別格大本山
・山号:東叡山
・御本尊:薬師瑠璃光如来
・開基:徳川家光/開山:南光坊天海
・創建:1625年
・文化財(建造物):重要文化財
・東京都台東区
2024(令和6)年2月3日(土)、2月10日(土)参拝(61歳11か月)