三仏堂に続いて護摩堂を拝観します。護摩堂は護摩祈願を行うお堂です。
参拝した日は天海大僧正の坐像が公開されており、「天海」の御朱印が頒布されていました。
この記事の内容
内陣には、ご本尊の五大明王のほか、七福神、十二天などの仏像が安置されています。
仏像は遠目からしか拝めませんでしたが、天海大僧正の坐像は出口のところに置かれていて、間近に見ることができました。
天海大僧正は何をした人?
日光山中興の祖・天海
日光山は、豊臣秀吉の小田原攻めに際して北条氏側に立ったため、北条氏が敗れた後に所領のほとんどを取り上げられ、衰退しました。
その後、1613年に徳川家康に日光山の貫主に選ばれ、日光山の再興につとめたのが天台宗の僧侶・天海です。(天海68歳のとき。家康が亡くなる3年前)
家康の絶大な信頼を得る
天海は会津で生まれ、比叡山・園城寺などで修行し、川越(埼玉県)喜多院の住職などをつとめました。
1607年には比叡山南光坊の住持となり、南光坊天海と号します。
関ヶ原の戦い後、徳川家康の帰依を受け、幕府の宗教行政に参画しました。
天海に出会ったとき、家康は次のように嘆いたといいます。
「天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」
天海は家康の絶大な信頼を得て顧問的な存在となり、2代秀忠、3代家光にも仕えました。
ちなみに、大河ドラマ『どうする家康』では、最終回にようやく登場。小栗旬が演じていました。
家康の葬儀を取り仕切る
一周忌を経て、1617年には天海の指揮により日光に改葬されました。
家康が故郷の駿府でもなく、江戸でもない日光に祀られることになったのは、家康自身の遺言によるものです。
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「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」(Wikipediaより)
※八州:関八州。明治時代以前の関東地方の呼び名
家康が日光山を重視していたことがうかがえます。
家康が天海に日光山の再興を託した1613年の時点で、すでに日光に祀られることを考えていたのでしょうか?
権現号を主張
家康の神号が検討されたとき、同じく家康の政治顧問だった金地院崇伝(こんちいんすうでん)が明神号(〇〇大明神)を主張したのに対して、天海は権現号を主張しました。
天海の意見が通り、家康は薬師如来を本地とする権現とされ、神号は東照大権現に決まりました。
東照宮の造営を指揮
1617年の東照宮(当初は東照社)の造営、1634年の徳川家光による寛永の大造替も天海の指示で行なわれました。
家康が「権現様」と呼ばれ、また、日光東照宮の建築様式が「権現造」と呼ばれるのは、天海と深く関係しているわけです。
天海は日光東照宮のひな型として1623年に日吉東照宮を造営しています。
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700年ぶりの大師号
天海は108歳!で自身が開いた東京上野の寛永寺で亡くなりました。
朝廷は天海に「慈眼大師」の称号を贈りました。
大師の称号は、最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)、円仁(慈覚大師)以降700年間贈られていなかったものです。
家光に慕われた天海
天海は遺言で日光の大黒山に埋葬され、のちに天海廟「慈眼堂」が建てられました。
家光は天海を慕うあまり、自分が亡くなったら天海のそばに埋めるよう遺言をしたと言われています。
「慈眼堂」は地図を見る限り、家光の廟所である大猷院とそれほど離れていないようです。
護摩堂の後、大猷院へ向かいました。
御朱印「天海」
金ぴかです!
●輪王寺の基本情報
・天台宗
・山号:日光山
・御本尊:阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音
・創建:766年
・開山:勝道上人
・文化財(建造物):国宝、重要文化財/世界文化遺産
・栃木県日光市
2023(令和5)年11月9日(木)参拝(61歳8か月)