また来てしまいました、鎌倉。前回から1週間しか経ってませんが・・・今回は北鎌倉エリアをめぐる計画です。
まずは、円覚寺。北条時宗が創建した鎌倉五山二位の大禅寺です。
この記事の内容
正式参拝ルートから向かう
円覚寺は北鎌倉駅すぐのところにあります。東口を出ると目の前です。
このときは荷物があったので、コインロッカーのある西口へ回ります。(今回も全国旅行支援利用の1泊旅 ^^)
▼西口を出て少し歩くと寺号票があります。
ここはすでに円覚寺の境内なのですが、この先をJR横須賀線が横切っていて、踏切を渡った先が円覚寺です。
つまり、境内が線路によって分断されています。
これは、明治時代に軍港のある横須賀へ鉄道を敷く際、最短の工期で建設するために境内に線路を通したという事情があったとのことです。
うーん(←納得いっていない)・・・これも歴史・・・
なので、上の写真の道は参道で、ここから向かうのが正式な参拝ルートです。
▼踏切を渡り、入り口に来ました。
鎌倉五山2位
「五山」とは禅宗(臨済宗)の5つの大寺院のこと。格付けがなされています。
「鎌倉五山」と「京都五山」とがあり、五山の上に京都の南禅寺が別格上位として置かれています。
鎌倉五山の順位は以下です。↓
●鎌倉五山
1位:建長寺 2位:円覚寺 3位:寿福寺 4位:浄智寺 5位:浄妙寺
▼総門をくぐって少し進むと三門(山門)が見えてきます。
立派な楼門。門というより、楼閣?
楼上には十一面観音、十二神将、十六羅漢が祀られているそうです(通常非公開)。
▼三門の先に仏殿があります。
ご本尊の宝冠釈迦如来が祀られています。
▼選仏場。
選仏場は修行僧の坐禅道場。
茅葺がいい感じですね~農家風?
▼さらに奥へ進みます。
円覚寺も鎌倉の谷戸(やと)に建てられていて、境内は縦長。奥へ進むにつれ高くなっています。
▼国宝の舎利殿。
舎利殿は鎌倉唯一の国宝建造物。お釈迦様の歯が祀られているそうです。(通常非公開のため正続院の門の外から撮影)
史上最大の帝国に立ち向かった北条時宗
敵味方の区別なく弔う
円覚寺を創建したのは、鎌倉幕府8代執権・北条時宗(ときむね)です。
時宗は数え年18歳で執権となり、24歳のとき、大帝国のモンゴルが襲来します(元寇)。
元寇の後、時宗は国家の平安と禅を広めることを願い、また、元寇での戦死者を敵味方の区別なく供養するために円覚寺を開きました。1272年、弘安の役(2度目の襲来)の翌年のことです。
時宗はその2年後の1274年に34歳の若さで亡くなってしまいます。
日本を守るために精魂を使い果たしてしまったのでしょうか?
生前、時宗公がこの地に庵を結び、禅の修行を行ったところだそうです。お亡くなりになられたのち、お堂が建てられ廟所となりました。
時宗公のほかに、子の9代執権・貞時公、孫の14代執権・高時公が祀られています。
3人の木像が安置され、お堂の下には遺骨を納めた石櫃が埋められていると伝えられています。
時宗は救国の英雄?
従四位だった時宗公は明治天皇によって従一位を追贈されています。
元寇から600年以上の歳月が流れた1904年(明治37年)のことです。
モンゴルを撃退できたのは暴風雨が吹き荒れ、元軍が海の藻屑となったからですが、鎌倉武士団がよく戦い、上陸を押しとどめていたからでもあります。
にもかかわらず、朝廷からは何の恩賞もなく、時宗も称賛されることはなかったといいます。
時宗の功績が称えられるようになったのは、ようやく江戸幕末に歴史家・頼山陽(らいさんよう)が『日本外史』で取り上げてからのようです。
モンゴルの襲来は明らかに侵略戦争であり、日本は純粋に自衛戦争を行ったわけです。
時宗は当時の首相兼最高司令官のような存在ですから、諸外国なら救国の英雄として学校教育などでしっかり教えられそうですが、日本ではそうなっていませんね。
どうしてなんでしょう?
▼引き返して方丈へ向かいました。
▼中に上がらせていただいて、まったりしました~
▼方丈を出て、国宝の洪鐘(おおがね)へ。
御朱印「寶雲閣」
直書きでいただきました。「寶雲閣(ほううんかく)」は三門の名称。
●円覚寺の基本情報
・臨済宗 円覚寺派 大本山/鎌倉五山二位
・山号:瑞鹿山(ずいろくさん)
・御本尊:宝冠釈迦如来
・創建:1282年
・開基:北条時宗/開山:無学祖元
・文化財:国宝
・神奈川県鎌倉市
2022(令和4)年11月24日(木)参拝(60歳8か月)