達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂は、絶壁にへばりつくように建つ崖造りのお堂。征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建したと伝わります。
この記事の内容
どうする? アクセス
達谷窟毘沙門堂までは平泉駅から約6kmあり、バス便がありません。
昨晩ホテルで悩みました。
選択肢は3つ。
・徒歩:往復約2時間40分
歩けなくはないけど、時間がかかりすぎ。帰りの新幹線に間に合わなくなるおそれあり。
・レンタサイクル:往復1時間以上
アップ(ダウン)があるときつい。フラットな道が続くとは思えない。
・タクシー:往復約20分
お金がかかる。
結局・・・
タクシーを利用。往復4400円ほど・・・出費 (-_-;)
タクシーの運転手さんに聞いてみると道は平坦とのこと。実際、目立った坂はありませんでした。
ただ、自転車では少しの傾斜でもきついと思い、断念。
平泉駅前にレンタサイクルがあるので、道のようすを問い合わせのうえ、体力に自信のある方はトライするのもありかもしれません。
ここは神社? 寺院?
入り口には鳥居が。
「毘沙門堂」なので、お寺と思っていたのですが・・・
さらに
さほど長くない参道に鳥居が3つありました。
かつての神仏混淆を色濃く残しているようです。
案内書きには弐之鳥居、参之鳥居については「他では見られない特殊な形式を今に伝えている」と書かれていました。
なぜ、絶壁にお堂が?
参之鳥居をくぐるとご覧の景色。
▼絶壁に張りついてる、というか、お堂の後部は崖に食い込んでいます。
▼階段を上って堂内に入り、中を拝観します。
達谷窟毘沙門堂の創建は801年、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)公と伝えられています。
当時、悪路王などの蝦夷が達谷窟を拠点に民を苦しめたため、坂上田村麻呂が征夷大将軍として派遣され、岩屋に籠る蝦夷を激戦の末、打ち破ります。
大将軍は、戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、そのお礼として清水の舞台を模してお堂を建て、108体の毘沙門天を祀ったのが達谷窟毘沙門堂の起源とされています。
翌802年には別当寺として達谷西光寺(せいこうじ)が開かれました。
●毘沙門天とは?
仏法を守護する天部の神。四天王、十二神将の一人。北方を守護し、日夜、法を聞くので多聞天とも呼ばれる。甲冑を着け武装し、忿怒の相。日本では七福神の一つとなり、特に武士の間に広く信仰された。
▼内陣を拝観、お参りして反対側にある階段から降ります。(堂内は撮影禁止でした)
しかし、まぁ~、よく建てたものです。
▼毘沙門堂の前には弁天堂。
源義家が彫り付けた岩面大佛
毘沙門堂の左手には、もう一つ見たかった岩面大佛があります。
岩面大佛は岩壁に直接刻まれた磨崖仏。
源義家公が前九年・後三年の役で亡くなった人を敵味方の区別なく供養するため、馬上より弓張を以って彫り付けたといいます。
当初は高さ16.5m、肩幅9.9mにもなる巨大な仏像でしたが、明治29年の地震により胸から下が崩落し、現在は顔のみが残っています。
現在も摩滅が進んでおり、保護が必要とのこと。
源頼朝も奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣し、そのようすが『吾妻鏡』に記されているとのことです。
▼鳥居のほうに戻って、達谷西光寺へ。
▼金堂
ご本尊は薬師如来。
「金堂内特別参拝」とのことで、お堂に上がって拝むことができました。
こちらもきれいで立派なお堂でした。
観自在王院跡へ
タクシーで毛越寺まで戻り、すぐ東隣にある観自在王院跡へ行きました。
観自在王院跡は奥州藤原氏二代・基衡公の妻が造営した寺院の跡地であり、世界遺産の構成資産です。
発掘調査の結果に基づき伽藍遺構と庭園の修復が行われ、現在の姿になっています。
かつては毛越寺のように阿弥陀堂の前に舞鶴池を中心とした浄土庭園が広がっていたとのことです。
池の周りをぐるっと一周して、平泉駅へ戻ります。
▼2日目の全ルート
これにて平泉ツアーは終了。
京都や奈良とは趣の異なる東北旅行でした。
御朱印「達谷窟毘沙門堂」
直書きしていただきました。
2023(令和5)年10月18日(水)参拝(61歳7か月)