541こ・む

神社仏閣めぐり初心者が始めた「なるほど」参拝紀行

【滋賀・三井寺】旅行けば 近江の古刹 御井の寺|60歳からの御朱印めぐり〔047/541〕

三井寺(みいでら)は滋賀県大津市にある天台寺門宗の寺院。

1300年以上の長い歴史を有し、平安時代より四大寺(東大寺興福寺延暦寺園城寺三井寺))の一つとされる格式の高い寺院です。

この記事の内容

 

天智天皇ゆかりの寺

三井寺と呼ぶのは、なぜ?

近江神宮を参拝したあと三井寺を訪れました。

園城寺

三井寺は通称で、正式名称は園城寺(おんじょうじ)といいます。

三井寺と呼ばれるのは、天智(てんじ)・天武・持統天皇の産湯に使われた霊泉(井戸)があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたことに由来します。

↓ お寺の入り口は仁王門(重要文化財)。

三井寺_仁王門

仁王門は徳川家康の寄進

塗装がはがれているのか、古色蒼然とした感じ。

↓ 釈迦堂。こちらも重要文化財

三井寺_釈迦堂

三井寺_手水舎

手水舎。屋根に草が生えている???

三井寺_手水舎

ご本尊は天智天皇の念持仏

↓ 金堂(本堂)は国宝です。

三井寺_金堂

茶で統一された堂々とした佇まい。

豊臣秀吉正室北政所によって再建されたもので、桃山時代の名建築だそうです。

堂内には多数の仏像が安置されていて、中を一回りするような形で拝観できます。なかなかの見応えでした~

ご本尊は天智(てんじ)天皇の念持仏と伝えられる弥勒菩薩(みろくぼさつ)像とのこと。(絶対秘仏なので見ることはできません)

弥勒菩薩とは?

釈迦入滅後、56億7000万年後!の未来に仏となってこの世にくだり、釈迦の救いに漏れた人たちを救いにやってくるという菩薩・・・(いったい、いつ?)

三井寺_一切経蔵

一切経蔵(重要文化財)。戦国武将毛利輝元の寄進

天智天皇の孫が創建

三井寺を創建したのは大友与太王(よたおう)。天智天皇の孫であり、大友皇子(おおとものおうじ・弘文天皇)の子にあたる人物です。

天智天皇没後、皇位をめぐって壬申の乱(じんしんのらん)が起こり、大友皇子は敗死、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)が即位します(天武天皇)。

系図的に表すと、こうなります。↓

天智天皇(第38代)ー大友皇子弘文天皇(第39代))ー大友与太王
  |兄弟       ↓↑ 対立、壬申の乱
 大海人皇子天武天皇(第40代))

大友与太王は父の菩提を弔い、天智天皇の念持仏である弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立。

その際、自身の田園城邑(田畑屋敷)を投じたことから、天武天皇が園城寺の寺号を与えたとのことです。

三井寺園城寺も名前に歴史が詰まっています。

三井寺_三井の晩鐘

三井の晩鐘(重要文化財

延暦寺からの焼き討ちは10回以上!

引き続き歴史の話をします。

9世紀に天台宗の僧侶・円珍(えんちん・のち第5世天台座主)が三井寺に入り、三井寺延暦寺の別院となります。

三井寺_唐院

唐院(重要文化財)は円珍の廟所。右手前:灌頂堂、左奥:長日護摩

円珍が亡くなった後、円珍派と、円仁(えんにん・第3代天台座主)派が対立し、円珍派は比叡山を下りて三井寺に移り、延暦寺から独立します。

比叡山は山門、三井寺は寺門と称するようになり、抗争を繰り返す中で、三井寺比叡山からたびたび焼き討ちを受けます(山門寺門の抗争)。

Wikipediaの情報では、その数は戦国時代までに14回、少なくとも全焼が7回あったようです。

↓ この山門寺門の抗争の中で生まれた伝説に「弁慶の引摺り鐘」があります。

三井寺_弁慶の引摺り鐘

弁慶の引摺り鐘(重要文化財

弁慶が三井寺の鐘を奪い、比叡山へ引き摺り上げて撞くと、「イノー・イノー」(関西弁で「帰りたい」の意)と響いたため、弁慶が怒って鐘を谷底へ投げ捨てたというものです。

三井寺_唐院

灌頂堂と三重塔

三井寺_三重塔

三井寺は焼失・再建を繰り返し、戦後の1946年には天台宗寺門派からあらため、現在は天台寺門宗の総本山となっています。

三井寺_毘沙門堂

毘沙門堂重要文化財)↑

三井寺_毘沙門堂

三井寺_観音堂

観音堂

御朱印弥勒仏」

三井寺_御朱印

 

三井寺園城寺の基本情報

天台寺門宗 総本山
山号:長等山(ながらさん)
・御本尊:弥勒菩薩
・創建:7世紀
文化財:国宝、重要文化財
滋賀県大津市

2023(令和5)年5月23日(火)参拝(61歳2か月)