1300年以上の長い歴史を有し、平安時代より四大寺(東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺(三井寺))の一つとされる格式の高い寺院です。
この記事の内容
天智天皇ゆかりの寺
三井寺と呼ぶのは、なぜ?
三井寺は通称で、正式名称は園城寺(おんじょうじ)といいます。
三井寺と呼ばれるのは、天智(てんじ)・天武・持統天皇の産湯に使われた霊泉(井戸)があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたことに由来します。
↓ お寺の入り口は仁王門(重要文化財)。
塗装がはがれているのか、古色蒼然とした感じ。
↓ 釈迦堂。こちらも重要文化財。
ご本尊は天智天皇の念持仏
↓ 金堂(本堂)は国宝です。
茶で統一された堂々とした佇まい。
豊臣秀吉の正室・北政所によって再建されたもので、桃山時代の名建築だそうです。
堂内には多数の仏像が安置されていて、中を一回りするような形で拝観できます。なかなかの見応えでした~
ご本尊は天智(てんじ)天皇の念持仏と伝えられる弥勒菩薩(みろくぼさつ)像とのこと。(絶対秘仏なので見ることはできません)
弥勒菩薩とは?
釈迦入滅後、56億7000万年後!の未来に仏となってこの世にくだり、釈迦の救いに漏れた人たちを救いにやってくるという菩薩・・・(いったい、いつ?)
天智天皇の孫が創建
三井寺を創建したのは大友与太王(よたおう)。天智天皇の孫であり、大友皇子(おおとものおうじ・弘文天皇)の子にあたる人物です。
天智天皇没後、皇位をめぐって壬申の乱(じんしんのらん)が起こり、大友皇子は敗死、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)が即位します(天武天皇)。
系図的に表すと、こうなります。↓
天智天皇(第38代)ー大友皇子(弘文天皇(第39代))ー大友与太王
|兄弟 ↓↑ 対立、壬申の乱
大海人皇子(天武天皇(第40代))
大友与太王は父の菩提を弔い、天智天皇の念持仏である弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立。
その際、自身の田園城邑(田畑屋敷)を投じたことから、天武天皇が園城寺の寺号を与えたとのことです。
延暦寺からの焼き討ちは10回以上!
引き続き歴史の話をします。
9世紀に天台宗の僧侶・円珍(えんちん・のち第5世天台座主)が三井寺に入り、三井寺は延暦寺の別院となります。
円珍が亡くなった後、円珍派と、円仁(えんにん・第3代天台座主)派が対立し、円珍派は比叡山を下りて三井寺に移り、延暦寺から独立します。
比叡山は山門、三井寺は寺門と称するようになり、抗争を繰り返す中で、三井寺は比叡山からたびたび焼き討ちを受けます(山門寺門の抗争)。
Wikipediaの情報では、その数は戦国時代までに14回、少なくとも全焼が7回あったようです。
↓ この山門寺門の抗争の中で生まれた伝説に「弁慶の引摺り鐘」があります。
弁慶が三井寺の鐘を奪い、比叡山へ引き摺り上げて撞くと、「イノー・イノー」(関西弁で「帰りたい」の意)と響いたため、弁慶が怒って鐘を谷底へ投げ捨てたというものです。
三井寺は焼失・再建を繰り返し、戦後の1946年には天台宗寺門派からあらため、現在は天台寺門宗の総本山となっています。
御朱印「弥勒仏」
・天台寺門宗 総本山
・山号:長等山(ながらさん)
・御本尊:弥勒菩薩
・創建:7世紀
・文化財:国宝、重要文化財
・滋賀県大津市
2023(令和5)年5月23日(火)参拝(61歳2か月)