妙本寺(みょうほんじ)は、比企谷(ひきがやつ)と呼ばれる谷あいにある日蓮宗の寺院。そこここに紫陽花が咲き、梅雨時の境内に彩りを添えていました。
この記事の内容
谷あいに建つ静かな寺院
アクセス・立地
鎌倉駅東口から徒歩約8分で総門に着きます。
鶴岡八幡宮が徒歩約10分なので、それより近い。
↓ 総門の隣に比企谷(ひきがやつ)幼稚園があります。
幼稚園ぽっくないこの建物は、昭和12年、当時の妙本寺貫首の発願により建てられたもので、八角形の夢殿を模して造られたそうです。
↓ 総門から少し進むと、参道の両脇には草木が生い茂っています。
↓ 紫陽花も!
鎌倉は三方を山に囲まれた地形(南は海)。山には幾筋もの谷があり、妙本寺のある比企谷(ひきがやつ)もその一つ。
↓ 少し先に進んだ右手には林があり、山のような雰囲気を感じられます。
↓ 上の写真から少し戻ったところにある方丈門。この形の門を見るのは初めてです。
↓ 石段の脇に紫陽花が咲いていました~
本堂
石段を上った先に本堂があります。
妙本寺は日蓮宗の最古の寺院の一つ。
ご本尊は三宝尊(さんぼうそん、さんぽうそん)といい、仏・法・僧の三宝を祀るための仏像だそうです。
↓ 寺務所。こちらで御朱印をいただきました。戸は閉められていますが対応していただけます。
二天門
本堂からさらに進むと、右前方に二天門が見えてきます。
仁王門は何度か見てきましたが、二天門は初めてです。
仏教の守護神である四天王のうち、持国天と多聞天(毘沙門天)が安置されています。
↓ こちらは二天門の内側の彫刻。
祖師堂
祖師堂は日蓮聖人などを祀るお堂。本堂より大きい。鎌倉最大級の木造仏堂建築だそうです。
眉に特徴あり!
比企一族を弔うために建立
比企氏とは?
ここから歴史の話をします。
比企氏については私も昨年(2022年)の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見るまで全く知りませんでした。
比企能員(ひきよしかず)を佐藤二朗さんが、比企尼(ひきのあま)を草笛光子さんが演じていました。
比企尼は、頼朝が伊豆に流されると、自身も武蔵国(現・埼玉県)比企郡の所領に移り住み、米を送るなどして20年間頼朝を支援し続けました。
頼朝が挙兵すると、能員は付き従い戦功を上げます。
頼朝に子が生まれると(頼家。のち鎌倉幕府第2代将軍)、比企尼の娘が乳母となります。母娘2代で源氏将軍2代の乳母になったわけです。
その後、能員の娘(若狭局)が頼家の側室となり、一幡(いちまん)を生みます。
能員は外戚として権勢をふるい、頼朝亡き後の「鎌倉殿の13人(十三人の合議制)」の中で北条氏との対立を深めていきます。
※外戚:母方の親戚。藤原氏や平清盛が権力を握ったのも天皇の外戚となったからで、日本史における必勝パターン
「比企能員の変」で北条氏に滅ぼされる
頼家が危篤となり、将軍後継問題が浮上すると、一幡を推す比企能員と、千幡(せんまん・のちの第3代将軍実朝(さねとも))を推す北条氏の対立が決定的に。
能員は北条時政の謀りごとにより殺害され、一族は比企谷の屋敷に立てこもりますが北条義時らの軍勢に攻められ、一幡は討たれ一族も滅ぼされました・・・(涙)
比企能員の屋敷跡に創建
一人生き残った能員の末子・能本(よしもと)は、鎌倉を訪れた日蓮に帰依し、父・能員と母の菩提を弔うために法華堂を建立し寄進。
日蓮が能員と母に授けた法号から寺号を「長興山妙本寺」に定めたと伝わっています。
境内には、比企一族のお墓や一幡の袖塚が残されています。
御朱印「如蓮華在水」
「如蓮華在水(にょれんげざいすい)」は、読み下すと「蓮華の水に在るが如し」となり、「あなた自身の花を咲かせましょう」の意味が込められています。
妙本寺では、法華経の中から抜粋して授与しているとのことです。
書き置きのみでした。(おそらくコロナ対策のため)
●妙本寺の基本情報
・日蓮宗 本山
・山号:長興山(ちょうこうさん)
・御本尊:三宝尊
・開基:比企能本/開山:日蓮聖人
・創建:1260年
・神奈川県鎌倉市
2023(令和5)年6月20日(火)参拝(61歳3か月)